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宝永小判金・乾字小判の買取

宝永小判(ほうえいこばん)とは宝永7年4月15日(1710年)に通用開始された一両としての額面を持つ小判。乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれる。また宝永小判および宝永一分判を総称して宝永金(ほうえいきん)あるいは乾字金(けんじきん)と呼ぶ。

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品位(千分中)・・・金834/銀166
量目・・・9.34グラム
鋳造期間・・宝永7年〜正徳4年(1710〜1714)
鋳造量・・11,515,500両

宝永小判金(乾字小判)のデザイン


宝永小判・表 宝永小判・裏
宝永小判・乾字小判の画像
宝永小判・乾字小判の画像(裏)


表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹兩」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、、吹所の験極印さらに右上に「乾」字が打印されている。 佐渡の金座で鋳造された「佐」の極印が打たれた佐渡小判が現存するが極めて希少であり、小判師の験極印は「又」、「宝」、吹所の験極印は「神」、「当」に限られる。元禄金は品位が低く、脆く折れやすいものであったため、良質の慶長金への復帰が望まれたが、金の産出が衰退した中では充分な通貨需要を満たすことができず、小型にすることで金品位を上げることとした。しかし一両あたりの含有金量は元禄金よりさらに低く、慶長金に対してほぼ半分となり、二分小判と揶揄されるに至った。これには相次いだ自然災害すなわち、元禄地震、宝永地震および富士山噴火被害による幕府の財政逼迫による、出目獲得の必要性もその背景の一つであった。さらに三代将軍の徳川家光の頃に増大した諸経費が金銀産出の衰退した五代将軍の徳川綱吉の頃になると支出削減どころかさらに増大する一方であり、例えば新将軍就任時の日光東照宮参詣等の恒例行事も華美となり勝ちで財政を悪化させる要素が募るばかりであった。このため江戸城の御金蔵には法馬金(ほうまきん)と呼ばれる、約44貫(約165キログラム)もの分銅型の金塊が有事に備えるべく蓄えられていたが、これが取り崩され、元禄年間までには全て小判に鋳造されて支出に姿を消している。 乾字金発行に際し、元禄二朱判は通用停止となり、元禄小判と宝永小判は等価通用、慶長小判については銀10匁を付けて交換という触書でがきであった。市中では依然として良貨である慶長金の退蔵が行われ、幕府はこれを引き出そうと対策を講じるが効果は薄いものであった。各藩でも藩札の発行準備の名目で良質の慶長金銀を退蔵していたため、幕府はこの提出を求めたが各藩は応じなかったため、宝永4年(1707年)に藩札の発行禁止令が出されるに至った。宝永小判は正徳期の慶長の幣制への復帰に際し二分判扱いとなったが、小型で扱いやすいものであったため、後に重宝される小判となった。通用停止は当初享保7年末(1722年)とされたが、引換が進捗せず享保15年(1730年)に通用許可令が出され、通用停止は延期されて元文3年4月末
(1738年)となった。

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